第319回 幼い頃を思い出してみた

前山 光則

 最近、「あのねせんせい」という冊子を読んで感心した。これはわたしのふるさと熊本県人吉市の古刹・願成寺が経営する保育園「人吉こども園」から毎年一回発行されるもので、昨年40号に達したのだそうだ。最近号3冊が送られてきたのだが、すみずみまで子どもたちの新鮮な感覚が溢れていた。
 
 
  きょうのおかずは
  ほいくえんの
  においがする
  おいしーい
         3歳1ヵ月(男児)

  おばあちゃん
  すごいね
  こーんなおおきい パパを
  うんだって
         4歳4ヵ月(男児)

  おんなの
  じょせいが
  すき~
         3歳4ヵ月(男児)

  そらくんすごいけん
  おちついたせいかつ
  おくってるけん
         6歳1ヵ月(女児)
 
 
 おかずに保育園の匂いを感じたり、大きなパパを産んだお祖母ちゃんに尊敬の念を抱いたりして、大人には真似できない敏感さだ。「おんなの/じょせいが/すき~」とは好みを言っているつもりだろうが、魅力ある女性とそうでない女性とを鋭く見分けているのではなかろうか。ドキリとさせられる。「そらくん」に凄さを感じているのは、これは本物の「空」だろうか。あるいは人名だろうか。いずれにしても「おちついたせいかつ」を送っていることへの尊敬の念が面白い。こんなふうに、一人一人がまるで「詩人」である
 自分にもかつてこんな伸びやかな感性があったはず。そこで遠い幼い日の記憶を辿ってみたのだが、わたしは昭和22年に人吉市の紺屋町というところで生まれた。家のすぐ裏手を球磨川の支流・山田川が流れており、「こうら(川原)」が広がり、鬼ごっこや隠れんぼ、野球などをしたし、夏には川へ入って水遊びや魚捕りに明け暮れた。川を挟んで紺屋町側は人吉市立東小学校区、駒井田町側は西小学校区であるが、この連載コラム第306回で話題にしたように、互いに対岸へ向けて次のような歌をうたうことがあった。
 
 
  ○○校の 先生は
  一足(た)す一も知らないで
  黒板叩いて 泣いている
 
 
 まったく、あの頃のガキどもはなんというはしたないことをやっていたのであろうか。相手校を罵(ののし)る際に、あろうことか先生たちのことをバカにしていたわけである。しかも、この歌は球磨・人吉地方独自のものと長らく思い込んでいたが、大人になってから県北や宮崎県日向市東郷町、鹿児島県奄美市などでも昭和20年代からすでにうたわれていたことを知った。当時かなり広い範囲で広まっていたことが察せられ、つまりこれは一種の流行(はや)り歌だったのである。
 もっとも、この思い出は小学校に上がってからのことである。そうでなく、「人吉こども園」の園児たちと同じ年頃に自分がどのような感性にあったかを辿ろうとしてみたものの、なかなか浮かんでこなかった。せいぜい、幼稚園に通うのは愉しくていつも朝まだ暗いうちから行って開門を待っていたなあ。あるいは、自分の通った幼稚園は願成寺とはまた違った寺の中にあったのだが、いたずらして叱られると罰として寺の納骨堂に閉じ込められていた。あれは怖かった。それから、学芸会で「分福茶釜(ぶんぶくちやがま)」のたぬき役をさせられて愉しかったけど、確か幼稚園の時だったよなあ、いや小学校に入ってからだったかな、などと他愛もない思い出が甦ってくる程度である。
 しかし、一つだけ、あの頃確かに自分の中に存在した感覚が思い出された。それを「あのねせんせい」流に記してみると、こうなる。
 
 
  ばあちゃんは
  おとこかなあ
  おなごかなあ
  むしゃんよか
 
 
 母が美容院をやっていて忙しかったので、代わりに祖母が炊事・洗濯・掃除、そして子どもの世話もやっていた。顔や手が皺だらけだったが、腰はさほど曲がっておらず気丈(きじよう)で、懸命に家を支えてくれていたのである。そのような大切な祖母が男であるのか女なのか、幼い頃どうしても区別をつけきれなくて首を傾げる毎日であった。はじめ女だったけど、いつの間にか男になったのかも知れん、と思って祖母に訊ねてみたことさえある。祖母は苦笑いしていた。ちなみに、「むしゃんよか」は漢字交じりに書けば「武者ん良か」である。
「あのねせんせい」のおかげで、このようにして幼少の頃のことを虚心にじっくりと思い返すことができた。実に伸び伸びとした柔軟な感性、童心は羨ましい。人吉こども園の園児たち、どうか健やかに育ってほしい。
 
 
 
写真 雪景色

▲雪景色。このところ、毎日、寒い。しかも、よく雪が降る。紅梅が咲いているというのに、雪を被ってあまり目立たなくなってしまった(2018・2・12撮影)