前山 光則
石牟礼道子さんが2月10日に亡くなられた。3月11日の誕生日を間近かにしての、享年90歳であった。
前日、寒かったが良い天気であった。八代市立図書館主催の文学散歩ツアー案内役だったから、34名の参加者と共に朝から人吉市方面へ出かけた。ぽかぽかした陽気の元、愉しい時間を過ごして夕方に帰宅したら、家の者が、熊本市の渡辺京二さんから石牟礼道子さんの容態が悪化したとの電話があった、という。その夜、気がかりでなかなか寝つけなかった。夜が更け、日付けが2月10日となった。明け方近くの午前5時頃になってインターネットを覗いてみたら、エッ、石牟礼さん死去とのニュースが出ているではないか。午前3時14分だった由。愕然とした。じわじわとこみ上げてくるものがあって、頭の中で色んなことが去来した。長い間パーキンソン病で苦しんできた石牟礼さん。このところ体が弱り気味であったからこの日が来るのはいたしかたないと思っていたものの、いざ亡くなられると込み上げてくるものがあった。
この2月10日はずっと雨で、湿っぽい一日となった。11日と12日は断続的に雪が降って、ひどく寒かった。家族葬をなさるということだったが、熊本市真宗寺での11日の通夜も、12日の告別式も、家の者ともども参加させてもらった。
石牟礼さんに初めてお会いしたのは、渡辺京二氏の記憶では昭和48年12月22日か23日だったそうである。実は自分ではよく覚えていないのである。ただ、昭和48年8月に石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二氏が中心になって季刊誌「暗河」が創刊されたのだが、わたしがこの暗河の会に加入したのは2号か3号目ぐらいの頃である。当時熊本第一高校で国語の教師をしていた福山継就という人に連れられて、暗河の会の溜まり場カリガリに行った、それが「昭和48年12月22日か23日」であろうかと思われる。そして、49年7月の第4号に「島尾敏雄序論(1)」を載せてもらっている。まだそれが載る前であったが、「暗河」の合評会が行われた際に出席し、石牟礼道子さんの連載「西南役伝説」について感想をレポートさせられた。わたしは、『苦海浄土』を含めて「暗河」のその連載も庶民の描かれ方が美しい。なんでそのように描かれるのかよく分からない、といった趣旨の発言をしたのだった。そうした感想は後になって、いや違う。あれは絶望の深さがそうさせているのだなあ、と考えを改めていくが、当時はまだ石牟礼さんの紡ぎ出す世界に違和感を持っていたわけだ。そうしたら、わたしの感想をその場で聞いていて石牟礼さんは「この人、同人雑誌を渡り歩いているようなブンガク青年ではないかしら」と、それこそ違和感を覚えたのだそうで、これはだいぶん後になって他の人から知らされた。
しばらくの間、石牟礼さんから声をかけられることも特になく、こちらも遠慮があるから会合で会っても挨拶する程度でしかなかった。それが、ある日、急に石牟礼さんがフレンドリーに接してくださるようになった。なんでそうなるのか不思議というよりも、なんだかホッとした気持ちでカリガリに出入りするし、「暗河」の編集作業にも深く関わることとなった。昭和50年4月には熊本商業高校定時制から多良木高校水上分校へ転勤になったが、それからは毎週土曜日に学校の授業が終わると熊本へ出て行ってカリガリで「暗河」の編集をする。そして熊本市薬園町の石牟礼さんの仕事場に泊めてもらい、日曜日には球磨郡水上村の職員住宅へ戻る、という生活をするようになった。女房は女房で熊本YMCAの英語講師をしていたから、毎週金曜日に熊本へ出てやはり石牟礼さんのところに泊まり、日曜日にわたしと共に水上村へ帰るのである。つまり、夫婦してすっかり石牟礼さんのところにお邪魔してしまう生活が、そう、あれから4年間続いた。
まったく、そのようなことをはじめとして水俣市の御自宅に泊まらせてもらうやらわが家にも来てくださるやら、あるいは取材旅行にご一緒するやら、何やらかにやら、この40有余年お世話になりっぱなしだったなあ、と、感謝するばかりである。女房は石牟礼さんの身の回りのことなどお手伝いすることが多かったからいいものを、わたしは何の役にも立たない。ただ呑んだくれるだけで、申し訳ないばかりであった。
それにしても、なぜ石牟礼さんはある時から急にフレンドリーになったのか。その訳を、数年経って渡辺京二氏から明かされたことがある。それは、ある日、石牟礼さんや渡辺氏たち数人がタクシーで熊本市の渡鹿(とろく)踏切というところを通過中、たまたまわたしが自転車を漕いで熊本商業高校方面へ向かっているのを見かけた。その時のわたしがとてもニコニコ、ニヤニヤして無防備な顔つきだったから、「前山という人、ああいう方なのですね」、タクシーの中は笑いが渦巻いたのだそうであった。「あれ以来、石牟礼さんはあなたへの警戒感が消えたのだそうだよ」と渡辺氏がおっしゃった。いや、自分でもその時のことは確かに覚えがあった。
それは、まだ熊本商業高校定時制に勤務していた頃、午後からの勤務であるから午前中はヒマである。私立の東海大学付属第二高校(現在の熊本星翔高校)からの依頼があって、午前中、非常勤講師として授業をしに行っていた。非常勤だから、授業した時間数の分だけ報酬を受けていたのだが、ある日、給料日でもないのに事務室から呼び出された。そして封筒を渡され、ボーナスだという。おや、ま、非常勤講師にもそういうのが出るのか。封筒の中身を覗いてみたら、当時の自分の給料の半額相当が入っていてビックリ。何という幸運、棚からぼた餅である。これをどう使うか、貯め込むか、自転車で東海大付属第二高校を出て、ペダルを漕ぎながら熊本商業高校へとおもむく道すがら、あの時のわたしは確かに他愛もなく頬が緩みっぱなしであった。そのような、まことに気合いの入らぬ状態のわたしを、タクシーの中から存分に観察されてしまっていたのであったとは……。
――こういうことを発端として、あれやこれやと思い出は尽きない。
石牟礼さんは、パーキンソン病に苦しめられるようになってからも作家としてずっと現役であった。昨年の秋頃にお見舞いに行った時、聞き取りにくい声だったが「もう生きるのには飽き飽きした」と呟かれた。しかし、そのすぐ後で「まだまだ書きたいことがいっぱいある」との力強い一言、これははっきり聞こえた。双方、矛盾するようであるが、しかし双方とも本音であったろう。最後にお会いしたのは昨年の12月25日で、その時はひどく窶(やつ)れて痛々しかった。
石牟礼さん、本当に本当にたくさんお世話になりました。安らかにお眠りください。