前山光則
数日前の夜、家でテレビ観て過ごしていたら、娘から電話がかかってきた。今、東京に仕事で出て来たついでに女友だち3人と会って、有楽町で一緒に酒を飲んでいる、と言うではないか。
「女ばかりで、か?」
「そう!」
答えた後、娘はスマートフォンをみんなの方へ向けたらしく、女性たちの屈託ない笑い声が響いてきてえらく愉しそうだ。
有楽町というならば、昔、歌が流行ったものである。
あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああビルのほとりのティールーム
雨も愛(いと)しや 唄ってる
甘いブルース あなたと私の合い言葉
「有楽町で逢いましょう」
歌に似合うような雰囲気は確かにあって、とりわけ駅周辺や銀座の数寄屋橋大通りへかけてのたくさんの建造物のたたずまいや街の賑わいようは、あか抜けした「花の東京」である。ほほう、わが娘を含めた若い女性4人は、東京のど真ん中、有楽町で飲み会をやっているわけか。しかも、うら若い彼女らは代わる代わる電話口に出て、
「お元気ですか。今夜は愉快にやってます」
「独りでは、さみしいでしょ?」
「おじさまも、たまには東京へ出てきてくださいね」
などと年寄りに声をかけ、励ましてくれた。ありがたいことであった。だが、彼女らと喋るうちにガーガーガーガーと雑音が響くので、ハッと気づいた。電話が再び娘に代わった時、
「おい、そこ、もしかしたら、ガード下か?」
「うん、ガード下」
「ならば、屋台風か」
「屋台ではないよ」
「立ち飲み屋?」
「違うよ」
「止まり木だけの店か」
「狭いけど、居酒屋よ」
「……」
ガード下。つまり、JR有楽町駅あたりはずいぶんな昔から鉄道が高架になっているが、その高架の下が飲み屋街になっている。狭苦しい敷地をうまく利用して居酒屋や食堂や立ち飲み屋などがひしめくので、わたしなども東京に居た頃、よく立ち寄って安酒を飲んだ。目立ったのは、勤め帰りのサラリーマンとか現場労働者などであったろうか。わたしのような貧乏学生も結構多かった。要するに、あまり金をかけずに飲める、酔える、便利な飲み屋街であった。だが、ガード下一帯はゴチャゴチャしていて、ションベン臭かった。飲み屋も、若い女性が気楽に入れそうな店はなかったはず。たまには怖い顔の人がしんねりと飲んでいることもあった。それが、今はもしかして面目一新しているのだろうか。うら若い女性4人が飲んで、食べて、語り合っている……、なんだか現在の有楽町ガード下の実際をこの目で確かめたくなったほどであった。
思えば、有楽町界隈を時たまうろついたのはもう早や50年も前のこと。電話で喋った後、ああ、年月が経ってしまったのだなあ、とため息が出た。
東京に出た頃、有楽町駅のすぐ傍の数寄屋橋はすでに川がなくなっていた。あそこは昔、江戸城址の外堀があったのだが、昭和33年頃から埋め立てて道路と化しており、わたしが東京へ出た昭和41年頃には完全に「数寄屋橋跡」となっていた。その北側に朝日新聞社と日劇ミュージックホールが並んで立っていた。朝日新聞社では半年ばかり編集局でアルバイトをしたし、日劇ミュージックホールの方には出前を届けに行ったことがある。東銀座の歌舞伎座裏にビーフシチューとグラタンをメニューとする「銀之塔」という店があって、そこで2年3ヶ月アルバイトをさせてもらったからである。行列のできる有名店である。出前はすぐ近くの歌舞伎座楽屋と電通本社からの注文しか受けていなかったが、それ以外にも時折り特別のお客さんから依頼があったら届けていたわけである。それで、日劇ミュージックホールに時々シチューを持っていった。楽屋に入ると、きれいなダンサーたちが半端裸で着替えをしている。夢みたいにきれいなお姐さんたちばかりで、グラマーで、胸がワクワクドキドキしてたなあ。
そして、アルバイトで稼いだ金に余裕がある場合、有楽町のガード下で時々飲んでいたのだ。ただ、あの頃、愉快に飲み食いした覚えはない。たいてい、明日はどうなるか、これから先、夜間大学を無事に卒業できるだろうか、などと不安を抱えながら焼き鳥を食い、ホワイトリカーをあおっていた。家からの仕送り一切なしで、自活しながら夜学生していた。今夜の娘たちみたいに、明るく、屈託のない声で飲み食いするなどとは、どうしてもそんな気分ではなかった。
その日の夜は、若い頃の自分を思い起こしているうちになんだかしんみりした気分に陥ってゆくのであった。
今日また娘が電話してきたので、有楽町での飲み会のことを聞いてみたら、あの夜はあれからガード下の居酒屋を何軒かはしごしたのだそうだ。みんなえらく元気で、盛り上がったことになる。そして、ガード下に来る客は、やはりおおむね勤め帰りのサラリーマンが大部分だったそうである。ならば、あまり昔と変わらないのかな? どうなのかな?