第408回 町なかで育った

前山光則

 この頃ようやく秋らしくなってきたが、『ふるさと球磨川放浪記』(弦書房)ができあがって、今、ホッとしている。
 思えば、最初に葦書房から新書版で『球磨川物語』が出たのが昭和54年(1979)、単行本のかたちで改訂版を作ったのが平成9年(1997)。そして、今回は書名を変えての再々刊行だ。同じ本を3回も上梓するなどという事態が自分の人生の中で生じる――こんなことは、若い頃には想像すらしたことがなく、自分でも不思議な心持ちである。
 今回は1年余をかけて全体にわたる加筆訂正や中身の入れ替え等を行なったが、とりわけまったく新しく収めたのが「第七章 狗留孫渓谷と月明学校」である。地元球磨・人吉の人たち自身がもう忘れてしまっており、それではさみしいから久しぶりに思い出してみましょうよ、といった気持ちであった。
 改訂作業をしながら、何というか「自分はふるさとでどのような育ち方をしたことになるかな?」と、こういうふうな思いがずっとつきまとった。その一端は「はじめに」の中でおおむね吐露しておいたが、しかしまだ書かずにしまっておいたことがある。
 実は、「自分は町なかのことしか知らずに育ったのだなあ」と、しみじみそう思っている。人吉市内の紺屋町に昭和33年(1958)の夏まで住んで、以後はそこから3百メートルほど離れた二日町という町内に移った。つまり、町なかでの暮らしに取り囲まれての幼少年時代だったわけだ。「それでも人吉は盆地の町。山と山に囲まれてたわけでしょ?」と、よく人から言われる。それはそうであって、所詮、人吉は田舎町。しかし、どんなにド田舎であってもやはり町は町なのだ。家の周りに田んぼも、畑も、山林もない。あるのは商店、会社、病院、銀行、その他いろいろがガヤガヤとかたまった「町場」である。わが家は、母が美容院をやっていた。父は日本通運人吉駅営業所の現場作業員。
 町場に住まいも美容院もありながら、父親も母親も祖母も人吉市近郊の農村で生まれ育った人間であった。だから、親戚は圧倒的に農村の方に多くて、小さい頃からよく遊びに行っていたものである。
 ただ、思えば、親戚を訪ねて行く場合、たいてい正月やお盆やら、あるいは秋祭りの時分やらであった。そんな時は親戚の広間で御馳走が振る舞われていて、それはとても愉しみであった。神社の祭に連れられて行って、子ども相撲が行われていると、加わって村の子どもたちと取っ組み合いをやって楽しかった。だから、それはそれで良い思い出として忘れられないのだが、しかし考えてみれば親戚の日常生活に入り込んで実質的な「村の生活」に加わったことがあっただろうか。そこのところが、今となっては心残りというか、せっかくだから農作業や山仕事の手伝い等もしておけばよかったのだがなあ、という思いがある。つまり、田植えや稲刈りや、あるいは茶摘みだとか畑仕事、間伐作業というような労働・雑事が農家にはたくさんあろうが、そうした諸々のことを間近に見たり、手伝いをしたりした経験がない。
 ある時親戚で昼飯を御馳走になった折り、そこの婆さんから珍しく、
「ミツノッチャン、トマトを、3個ばかりちぎってきてくれんね」
 と用を言い渡されたことがあった。わたしは、10歳ぐらいであったろうか。トマトの植えてある畑は家のすぐ裏にあるというから、行ってみると、すぐに分かった。赤いトマトがいくつも生(な)っており、捥(も)いでみたら、おや、おかしい。えらくホカホカと温かいトマトなのであった。家で口にするトマトはいつもよく冷えていたから、なんでだろう。これは何かおかしいのではないか知らん、と解せないまま3、4個を手籠に入れて戻り、婆さんに、
「大変ばい、トマトが、えらい温(ぬ)っかばい、こらあ、腐らんじゃろうか」
 と報告した。そしたら婆さんも、座敷で焼酎を酌み交わしていたオジさん・オバさんたちも、
「まあまあ、ミツノッチャンの上品さよなあ」
 と大笑いするのであった。畑のトマトは太陽に照らされているから温もっているという、そんな単純明快なことがまるで分かっていない町っ子だったわけだ。
 田舎のことが分かっていないがために、農村の悪ゴロたちを退散させたこともあった。 親戚の家の裏手でひとり柿ちぎりして遊んでいたら、2、3人、寄って来た。日頃見かけない男の子がいるものだから、訝しく思ってのことであったろう。寄って来て、あいさつをしろとか、柿をよこせとか、詰りはじめた。横柄にものを言うのでこちらもぶっきらぼうな態度で応じたろうと思う。やがて彼らは、わたしに小石を投げつけた。こちらは腹が立ってやはり投げ返そうとしたが、残念、あたりに小石が見当たらないのであった。彼らの方からはまた小石が飛んで来て、肩辺りに当たって痛い。堪らず親戚の家の方に逃げたが、彼らは追ってきた。大人たちに頼るのはイヤだったので、母屋の方には逃げ込まず、馬小屋へ入り込んだ。その日、なぜか馬は小屋の中におらず、幸いであったのだ。しかし悪ゴロたちは追ってきて、小屋の前で睨みをきかせた。万事休す、であった。
 でもどうにかしたくて周りを見てみたら、足もとに褐色の丸い玉がいっぱい散らばっており、触ると、軽いけどもカラカラに乾いている。よし、これなら石ころ代わりになる。拾い上げて、馬小屋の入り口の方に向けて闇雲に次から次へと投げつけてやった。そうしたら、彼らは総崩れというか、慌てふためいたというか、
「こら、止めろ、汚か、あ、ほんと、止めろ」
 口々に叫ぶのであった。
 そんなふうに喧嘩したおかげで、かえって彼らと仲良くなってしまい、次からその親戚の家に行くときはいつも聞きつけて、遊んでくれるようになった。彼らは、わたしに会う度に、
「ミツノッチャンは勘無しじゃもん。あぎゃん汚(きたな)か馬糞ば、石ころ代わりに投げつける人間にゃあ、俺たちやァ、初めて会うたとばい」
 いつも、苦笑して言うのであった。馬糞というものは牛糞のようにベチャベチャしてなくて、初めから丸い塊りである。しかも時間が経てば乾いて、カラカラになり、馬小屋に転がっている。田舎の悪ガキたちはそんなことをちゃんと承知していたが、しかしさすがの彼らも馬の糞を石ころ代わりに使うなどという「汚(きたな)か」行為は決してしなかった。ところが、町から来たわたしはそんなことは無視して、やたらと馬糞を投げ散らしたから「勘無し」、常識外れなのであった。
 こうした愚行も、わたしが農村について無知であったがため平気でやらかした、ということになろう。
 でも、町の暮らししか知らぬ育ち方をしたからこそ、大人になって多良木高校水上分校に勤務した4年間、山村で育った生徒たちとつきあうのがとても新鮮で愉しかった。彼らはマタタビとかセンブリの採れる場所や時期などについて熟知していたり、谷川でヤマメを釣る名人であったり、学校の花園を手入れするのもたいへん手慣れて上手だった。
 そして、最初に『球磨川物語』を執筆する際にはまだその水上分校にいたのだが、球磨川そのものについては幼少時から馴染んで育ったので愛着があった。だが、水上村の奥の球磨川水源地に関しては、秘密のベールに包まれた一帯であった。だから最終章の「球磨川はここに始まる」は、山奥を知らぬ町っ子が恐る恐る川を遡って垣間見た結果をレポートしているようなものであろう。今回の本に初めて収録した「狗留孫渓谷と月明学校」も、もともとは高校時代に三上慶子『月明学校』を読んで感動したから白髪岳山中に行ってみたのであったが、やはり山の中にはどういうものがあるのだろうか、との興味関心があってのことだったと言える。
 言うなれば、『ふるさと球磨川放浪記』は町なかしか知らずに育った人間がひろびろとわが郷土を見わたし、見直しして学習した結果をレポートした書きもの、と言えるのではなかろうか。田舎を知らなかった、だから知りたくてしかたがないという、これが執筆のエセルギーになったわけだ。
 そう、俺はほんとに田舎を、農村を知らぬ人間なのだ――今、しみじみと納得している。
 
 
 

▲人吉市街 人吉城址から眺めた風景。市街地全体の一部分だが、盆地の中に展開する街だということはある程度分かるかと思う。