「絵かきが語る近代美術 高橋由一からフジタまで」書評から

地元・福岡市の福岡県立美術館で行った連続講演をまとめたもので、…語り上手な人だけに、随所で独特の菊畑節に触れることができる。
藤田嗣治の戦争画を題材にした70年代の(菊畑氏の著書)第一作『フジタよ眠れ』は、戦後の美術批評が避けて通った主題と、初めて真正面から取り組んだ画期的な書物であった。…戦争中、小さな自分が打ち震える思いで見上げた藤田の玉砕図から、菊畑氏はその「魔性」の秘密を探り出そうとしたのである……(本書は)『フジタよ眠れ』当時より、戦争画に対する視野が一段と広がり、知見の奥深さも増した印象がつのる。
(毎日新聞/2003年9月3日付)

菊畑氏が語る日本の近代美術史は、国家の命題を苛烈かつ自覚的に生き、押し寄せる欧化と文明の奔流の中で、逆に研ぎすまされてゆく絵描きたちの壮絶な歴史であった。……本書は、美術史ではあるが、現代を生きる一人の絵かきの身に迫る問い返しとして、歩み来たる道のりを限りなく問う歴史だといえようか。
本書はまさしく、絵かきたちの迫真のドラマであり精神の劇である。日本近代の相克と葛藤の軌跡は、菊畑茂久馬という絵かきが語る近代美術に、何より遺憾なく発揮されている。(図書新聞/2003年8月16日号)

著者は「絵かきの路地裏道草漫談」という。これは謙遜しているのではない。絵かきには、画家よりも絵をこっち側にもってくるずぶとさを込めて、路地裏には、生活のしみこんだ実体験を秘めさせ、道草こそ本道を睨んで、漫談という会話体で、論を手元にひきずりこんでいくのである。講演会の記録というが、目前で茂久さんがしゃべっているようだ。……絵のことに関心がないかたも、寄席にでも入るつもりで、まあ聞いてってくださいな。(彷書月刊/2003年9月号)

◇美術専門紙「新美術新聞」2003年9月11日付で紹介されました

画家である著者が、無手勝流、型破りに切り込んだ無類の「日本近代美術史」である。史家や評論家が周到に調べあげたお定まりの美術史ではなく、実際に絵筆を握りしめた描く側からの単刀直入な疑問や異論が次々に発せられて、平均的常識に汚染されている私たちを、オオッ、とのけぞらせる。
まず、先制パンチは、油絵の常識や思い込みに不意打ちを食らわせる。わが国の油絵は西欧の模倣ないしは移入だと理解しているのが大方だが…種は西洋が播いたにしろ、育てたのは庶民。漆工芸、陶磁器、浮世絵をはじめとする伝統を楽しむ下地あってのことで、初期油絵は「国産なんだ」と異論を放つ。
圧巻は後半の藤田嗣治を中心とした戦争絵画の問題。これもまた美術史からタナ上げされ、戦争画の芸術性を隠匿、不問にしてきた。そこに本当の絵画の魔性の真価を遠ざけてきたうらみがあるという。その語り口が絶妙で、ついつい読者も釣り込まれる。(田中幸人・美術評論家 熊本日日新聞/2003年9月21日付)

第一作『フジタよ眠れ』で、戦後の美術批評のタブーであった「戦争画を描いた画家」に真正面から取り組み、戦争画を読み解く道を切り開いたその〈知見の奥深さ〉はさらに増幅した。第六章「ヒトラーの近代美術抹殺」、第七章「戦争画の流転」、そして第八章「藤田嗣治の戦争画」が、殊に興味津々、説得力がある。美術批評にいま新しい流れが起こっているのではないか。(齊藤槇爾・文芸評論家 出版ニュース「ブックハンティング」欄/2003年10月上旬号)

菊畑茂久馬『絵かきが語る近代美術』が話題になっている…著書でも述べられていることの一つに、日本油絵の開拓者高橋由一が絵を描く材料、絵の具や溶き油、筆などの開発にかけた苦労がある。
絵を描く場合、何をどう描くかという表現論は無数にあるが、材料の問題と表現の企図を正面から論じる視点は珍しい。(西日本新聞「風車」欄/2003年9月20日付)

◇「新文化」2003年9月18日付の「地方・小通信」欄で紹介されました

現代日本にも、美術史の「語り部」たる画家が何人かいる。なかでも、本書の著者は、『フジタよ眠れ』『天皇の美術』などで、戦争記録画の正当な評価を導いた先駆者である。… 最新作(本書)は、この語り部の核心をなす日本近代美術史論への待望の入門書といえるだろう。
権威ある定説は一刀両断する。黒田清輝と東京美術学校・官展に流れる主流を「西洋絵画模倣街道」と呼び、一顧だにしない潔さは、前例主義の「学者」には望むべくもない。一方、その黒田の遺作に荒れ狂う「挫折感と絶望感」を共感するのも実作家ならではの見かただ。著者は画家たちの必死な制作と正面から向き合っている。本書は美術を見直す視点を与えてくれる。(岡部昌幸・帝京大学助教授〈美術史〉 東京新聞・中日新聞/2003年9月28日付)

藤田嗣治らの戦争画を政治でなく美術の視点で評価すべきとする持論なども含め、表現にこだわってきた人らしい美術論が、機知を交えて展開されている。(福井新聞・他/2003年10月5日付)

菊畑氏は「日本の近代美術を考える場合、西洋近代美術の導入から、戦争画に至る過程をたどらなければ語れない」と話す。それを美術の門外漢という編集者が章を立て、見出しを付け、挿絵を選んだ「外野席から読み解いた本」はみずみずしい楽しみをもたらした。(朝日新聞/2003年10月18日付)

近代美術を独特の語り口で軽快に斬る…美術家の視点が生み出す、斬新かつ親しみやすい美術史です。(美術手帖/2003年11月号)

キリスト教と王侯貴族の城から生まれた西洋油絵に対し“日本の洋画は江戸庶民が育てた”などとするユニークな視点から、近・現代の日本の美術史を考察している。(徳島新聞/2003年10月6日付)

◇「図書新聞」2003年11月15日付に、著者の菊畑茂久馬さんのインタビューが掲載されました。

 –『絵かきが語る近代美術』を読むと、戦争画の問題は『日本近代はいったいどんな道を歩んできたのか』という問いを抜きにしては語れないですね。
 菊畑 日清・日露戦争を突破口にした近代国家の成立とほとんど同時に、日本の近代美術は生成してきているわけですね。その大動脈に、初手から戦争画というやっかいな血が流れているんですね。それは戦争ないし戦争状態の中でずっと歩んできた歴史でもあり、日本の近代美術そのものが、そういう流れの中にあったことを無視しては、とうてい日本の近代美術史は語れないでしょう。……美術批評といえども、歴史認識に無縁なはずはないのであって、問題は今日の場所から、過去を打ち据えるのではなくて、いかにしてその時点と現場に舞い降りて語れるかということが問われます。いま現在の温々とした場所から批判するのではなくて、その時点で画家たちはどうだったのか、絵筆の先にまで張り付かないと、問題は解けないと思いますね。

絵かきらしく事実と喰いちがっているところもあるが、菊畑氏の心情では歴史的真実なのである。事実だけを羅列して心情的真実を無視するから、美術史の叙述が面白くないのである。…(文中で先に紹介の)『日本美術の社会史』とともに近来の快著と思う。(青木茂氏「新・旧刊案内」/「一寸」2003年10月号)

切れば血の出るような日本近代美術史だ。先達への畏敬の念を込めてデッサンし直された歴史の像が、生命ある生き物のように、立って歩き出している。絵とは何か、絵を描くとはどのような営みなのかという問いを、死活的な問いとして問い続けてきたこの画家にして初めて書き得た美術史と言ってよいだろう。(読売新聞2003年12月11日付)