第16回 西銀座にあった球磨焼酎の店

前山 光則

 球磨焼酎について調べていると、おもしろい読み物に出くわす。その1つが、吉良至誠という人が昭和28年に発表したエッセイ「東京人吉版—東京通信・その一」である。
 この人は朝日新聞の記者で、かつて球磨焼酎の里・人吉市にも1年8カ月いたことがあるそうだ。エッセイによると、吉良氏が東京へ出て「君の名は」で知られる有楽町数寄屋橋あたりを歩いていたら、川に沿ってバラック建ての飲み屋が並ぶ中に「九州名産球磨焼酎、熊本県人吉出身」との広告板が目についた。暖簾を押して入った店の中は「コ」の字型にスタンドがあり、「地低い、胴の太い若い姉妹」が立ち働いていた。「焼酎!」と注文したら、出て来たのは酒粕製の焼酎。これだと球磨焼酎ではないから「看板にいつわりありではないか」と文句を言うと、「おじさんな球磨焼酎ちゆうて注文しやはったかいた」と店の娘は目を剥いた。あらためて注文したら、ちゃんとチョカに入った球磨焼酎「峰の露」が出てきた。値段が75円。吉良氏が「人吉はどこかね」と聞くと、「一武です」。つまりこれは現在の球磨郡錦町一武で、人吉市の東隣りだ。「君なんか一武なんか知らないんだろう?」と冷やかすと、「まあ、知っとらじゃコテ、あっちで生れたッですもん」、娘さんは人吉方面のアクセント丸出しで喋った。
 店のマッチには屋号が「松喜」、住所が「西銀座2ノ2」と刷り込んであったという。
 実は、この居酒屋「松喜」は伝説的な店なのだ。人吉出身の俳人・上村占魚氏の随筆「球磨焼酎の風味」によると、上村氏は常連だったそうだ。しかし、東京オリンピックへ向けた高速道路建設のあおりをくって店が池袋の方に引っ越したため、ご無沙汰気味になったと回顧している。それから郷土史家・種元勝弘氏の「東京の人々」には、移転後間もない池袋店を昭和33年の正月に訪れた時のことが報告されている。ただ、上村氏も種元氏も店の名を記していない。吉良氏のエッセイで初めて「松喜」という店名を確認できた。
 球磨焼酎が本格的に県外特に東京・大阪などの大都会方面への進出を始めるのは、昭和38年である。これらの文章が書かれた頃、東京へはまだほとんど出回っていなかったわけで、だから「松喜」はたいへん貴重な、先駆者的存在だったのだ。あの頃、東京のど真ん中で球磨焼酎が呑めて、しかも球磨弁丸出しの会話ができたのだから、愉快なことではないか。故郷から遠く離れて暮らす球磨・人吉出身者は、どんなにか孤独感が癒され嬉しかったことだろう。
 1度でいいから店に入って、「球磨焼酎ば呑ませっくだいよ」と言ってみたかったなあ。
2010年8月9日

▲伝統的な酒器ガラとチョク。吉良氏は「チョカ」と書いて
いるが、球磨・人吉では普通「ガラ」と呼ぶ。ガラに入った
焼酎をチョクに注いで呑むのが昔の習慣だった。

▼引用文献
吉良至誠「東京人吉版—東京通信・その一」(『日本談義』昭和28年9月号、日本談義社発行)
上村占魚「球磨焼酎の風味」(『愚の一念』昭和40年・笛発行所刊所収)
種元勝弘「東京の人々」(『人吉文化』第7号、昭和33年3月・人吉文化研究会発行)