前山 光則
この何日間か、必要あって俳句の本を読んでいる。それも、「人間探求派」と呼ばれた一群の俳人たちを集中的に辿るのだ。なかなか面白いが、分かりにくい句も結構ある。
バスを待ち大路の春をうたがはず
石田波郷のこの句はよく知られている。昭和8年、東京での作で、作者はまだ21歳だったそうだ。都会の大路でバスを待ちながら、春の到来を確信したわけだろうが、では何が「大路の春をうたがはず」との確信をもたらしたのだろうか。写生句でないから、具体的なものは示されない。もしかして、道端でバスを待つこと自体が春らしさの証(あか)しだろうか。いや、まさか。あるいは、最初、春らしさに気づいていなかったのだが、バス停に立つ内に大路の並木の芽吹きや風の吹き具合やらで感じるものがある。冬景色なのか、いや、春らしさが現れてきたのか、と疑わしかったが、それがやがては「うたがはず」と確信するにまで至った、というのだろうか。とにかく、心惹かれながらもはっきりしたことがつかめない作品である。
昭和22年に肺結核により38歳の若さで逝った石橋秀野の作品も、読んでみている。この人は石田波郷に師事したらしいが、「烏賊噛めば隠岐や吹雪と暮るるらん」「朝寒の硯たひらに乾きけり」「春暁の我が吐くものの光り澄む」等、分かりにくい句はほとんどない。亡くなる2ヶ月前の入院の際に詠んだ「蝉時雨子は担送車に追ひつけず」は、涙を誘う名句である。ただ、秀野の作品中、
望遠鏡かなし枯枝頬にふるる
これは難しい。「望遠鏡」を「かなし」と思うのは、どうしてなのか。枯枝が頬に触れるのだから、冬、山登りでもして望遠鏡で風景に見入っていたのだろうか。あるいは、山でなくとも平地の藪にでも入って、望遠鏡越しに何かを見ていたか。その際に枯枝が頬に触れたとして、そのことと「望遠鏡かなし」はどう関連するのか、分かるようになっていないのだ。でも、そうではあるが、不意打ちを食らった時のような新鮮さが胸に残る。
この句は、昭和15年、作者31歳の時の作とのことである。秀野の娘・山本安見子さんの書いた『石橋秀野の一〇〇句を読む』によれば、新感覚派の作家・横光利一はこれを絶賛した上で、「惜しい、どうしてこの句を小説にしないんだ」と言ったそうだ。著者の安見子さんは「抽象画の趣がある」と評している。そう言えば、このコラム第20回で人間探求派の1人である加藤楸邨の「鰯雲人に告ぐべきことならず」に触れたことがあるが、あれも句意がはっきりしない。にもかかわらず魅力的な句であるから、抽象画的な味わいは「人間探求派」の特徴の一つなのだろうか。