前山 光則
最近、同郷出身の友人が電話してきて「あんたの連載コラム第188回に出てきた『月明学校』って、どういう本?」と電話で訊く。同郷なのに、今まで知らなかったらしい。
昭和20年4月、熊本県球磨郡上村(現在、あさぎり町)の狗留孫(くるそん)渓谷に東京から作家・三上秀吉(ひできち)氏とその娘・慶子さんが疎開してくる。そして土地の人たちから頼まれて分教場で子どもたちに勉強を教える。これが、戦争が終わってからは上村小学校八ヶ峰(はちがみね)分校として正式に認可され、父娘は昭和28年まで熱心に分校教育に励むのである。2人の努力は高く評価され、25年春には皇太子(現在の天皇)の家庭教師ヴァイニング夫人が興味を示し、わざわざ分校まで訪ねてきたこともある。昭和26年には西日本新聞文化賞が授与された。その間の学校生活や山村の様子を慶子さんが綴り、一冊にまとめたのが『月明学校』(昭和26年、目黒書店刊)である。安井曾太郎が装幀し、題字は志賀直哉であった。この本はベストセラーとなる。ちょうど同じ年に東北地方の無着成恭氏の『山びこ学校』が刊行されて話題となり、両書はいわゆる「学校もの」ブームのさきがけとなった。
『月明学校』の中で、三上父娘は字の読めない子、算数のちっともできない子、礼儀を知らない子たちに苦労する。戦争が終わると、谷間の村にも頽廃的なやくざ踊りが流行し、子どもたちが真似をするので、どうにかしてそのような風潮に染まらぬようにしたいと父娘で奮闘努力する。生徒の親に武家の口調で喋る父親がいたり、家庭訪問すると茶菓子の代わりに虎杖(いたどり)の煮付けが出てきたりして、都会育ちの慶子さんをとまどわせる。一方で、生徒達を人吉市まで修学旅行で連れて行った時のこと、生徒たちは歩いて峠の頂上まで辿りつくと、上村小中学校の本校の建物を眼下に見て興奮し、どんどん坂を駆け下りる。上と下とで、ホウー、ホウーと鳥のように互いに呼び交わす、……といった生き生きした様子が活写されている。民俗学者の宮本常一は『私の日本地図11阿蘇・球磨』の中で「三上慶子さんの『月明学校』は何回読んでも心のあたたまる本だ」と評している。
三上父娘は、昭和29年に東京へ戻る。秀吉氏は昭和45年、逝去。一方、作家としても能楽評論家としても活躍した慶子さんは、平成18年に亡くなる。狗留孫渓谷は、かつては林業にたずさわる人たちがたくさん住んで森林軌道もあった。軌道は、支線も含めて約30キロに達していたという。だが現在はまったくの無人境であり、山仕事をする人たちは宮崎県えびの市から車で通ってくる。ヴァイニング夫人が手植えしたという欅の木が健在だが、薮の中で忘れられてしまっている。
電話でざっとそのようなことを伝えてあげた。なんだか、また読み返したくなった。